特集・大神雄子選手Vol.1(全3回)

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特集・大神雄子

「東日本大震災」被災地復興支援活動を行うバスケ日本女子代表の大神雄子選手。
支援活動を始めた経緯、活動内容、その活動を契機にして起きた心情の変化。
そしてロンドン五輪出場にかける意気込み(全3回)
(取材・記事 西本匡吾)

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2011年3月11日14時45分、大神雄子をはじめとしたJXサンフラワーズの選手たちは、福島県郡山市にある体育館で、次戦に向けての準備を行っていた。軽くシューティングをする者や自らが定めた練習メニューに取り組む者、明日に迫ったWJBLファイナル第二戦に向けて、気力と体力を整える。  
前日、船橋アリーナで行われたファイナル第1戦は、76-65で勝利した。JXサンフラワーズのガードを務め、日本の女子バスケットボール界で唯一のプロ選手でもある大神は、両チーム合わせて最多となる28得点を決めた。
WJBLの二連覇に向けて、順調な道のりを歩んでいた。

1分が過ぎ、時刻は14時46分となった。

最初は、『ああ、地震だね』という感じでいました。でも、揺れがどんどん強くなってきて。私は壁側に行けたんですけど、何人かの選手はゴールの下で待つしかない状態でした

微弱な地震は、秒針が進むと共に激しさを増した。
天井と壁のコンクリートは次々に剥がれ落ち、窓ガラスは割れる。
仲間を見ると、涙を流している者もいる。
声が、言葉が、喉から出ない。

あのあとは、体育館に行くのが怖くなりました
 
JX サンフラワーズの選手とスタッフたちは体育館を出て、19時過ぎまでバスの中で待機した後、下道で郡山市からチームの体育館と寮がある千葉県柏市へと向った。
地震の直後に、WJBLは12日と13日に開催予定だったファイナル第二戦、第三戦の中止を発表していた。一週間後の3月17日、ファイナルの中止に伴いWJBL2010-11シーズンの終了が決定したものの、それまでの7日間、大神のなかには二人の自分が同居していた。
 
ファイナルが途中だったので、自分たちは再開に備えるため、アスリートとして体を作らないといけない。でも、やっぱり、日本人としてはこういうときに自分たちは何かできるんじゃないかと考えたり・・・毎日そんなことを考えて過ごしていました。怖くて体育館には行けなかったですね。でも、体力は落としたくなかったから、走ったりはしていました

ただ、アスリートとしての自分とひとりの人間としての自分、両者を天秤に掛けたとき、地面に限りなく傾くのは、後者だった。

アスリートとしてよりも、ひとりの日本人として何かできないかと考えることのほうが多かったです。だから、バスケットボールはできないと考えていました

WJBLの二連覇は掛かっていた。だが、自分たちが優勝を争っている事態ではない。
東日本を襲った地震は、瞬く間に二次災害をも発生させた。宮城県津波にも襲われ、死者と行方不明者を合わせると14000人以上に上った。福島県にある原子力発電所は、かつてないトラブルに直面していた。

 
スポーツの世界では、プロ野球が開幕戦の延期を、J リーグはシーズンの中断を余儀なくされた。
バスケットボールは、WJBLだけでなく、JBLもシーズン途中での終了となった。各種のマラソン大会や学生の全国大会は次々と中止になっていった。

震災でバスケットボールができない子供たちがいるなかで、何とか一緒にバスケットボールができないか。例えできなくても、一緒に体を動かすことはできないかと。もしボールがあれば、パスやドリブルはできるから」 

自身のエージェントに日程を調節してもらい、大神は、被災地のひとつである宮城県女川町に向かった。東日本大震災から約2ヶ月が経過した、5月3日のことだった。(続)

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大神雄子公式HP
第24回FIBA ASIA女子バスケットボール選手権 長崎/大村大会 公式HP