秋田ノーザンハピネッツ・長谷川誠選手(42)が現役引退を表明【記者会見全文】


元男子バスケットボール日本代表でbjリーグ・秋田ノーザンハピネッツに所属する長谷川誠(42)が今シーズン限りでの現役引退を表明した。42歳の誕生日となった4月2日(火)に秋田県庁で記者会見を行い、「今季に入ってから体力の限界を感じるようになった。若手に道を譲り、その支援ができるよう勉強に励みたい。素晴らしい指導者に恵まれた選手生活だった。」と心境を語った。以下、記者会見・質疑応答の全文と略歴を掲載。
(文・写真/宮川 紀元)

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記者会見

秋田プロバスケットボールクラブ株式会社 水野 勇気社長

本日は本当にたくさんのメディアの方々にお集まりいただき、ありがとうございます。昨日、長谷川誠選手の今シーズン限りでの現役引退、それに伴う引退会見を行うという大変突然のリリースだったにもかかわらずたくさんの方々にご調整いただき、本当にありがとうございます。
長谷川誠選手が秋田ノーザンハピネッツの1年目から入団し、現在3シーズン目の終盤です。チーム立ち上げの一番苦しい時に新潟からノーザンハピネッツに入団してくれました。その中で、選手としてはもちろんなのですが、プレーイングマネージャーという日本のバスケ界では非常に新しいポジションでHC、選手、フロント、会社の調整・まとめを色々やってくれていました。色々な役割をこなしてくれたのですが、選手としては今シーズン限りで引退するという旨の話を先週いただきました。
当然私にとってはチームを1年目から一緒につくり上げてきた存在だと思っていますので、選手として引退することに関しては非常に寂しい思いもあります。この後本人から話があると思いますが、まだバスケットボール人生はこれで終わるわけではありませんので、これからの長谷川誠という存在にぜひ大いに期待したいなと思っております。
また今回こういうタイミングで発表となったことにつきましては、まず大きな節目として今日が長谷川選手の42歳の誕生日であるということ、そしてまたレギュラーシーズンが残り8試合、そのうちホームゲームが4試合ということで、やはり日本のバスケット界を引っ張ってきた存在なので、より多くの人に最後のプレーチャンスを観てもらいたいということで、このタイミングになりましたことをご理解いただければと思います。

長谷川 誠選手

たくさんの記者の方々に急にお集まりいただき、ありがとうございます。今日で42歳になりました。たくさんのファンの方々、企業の方々、支援してくださる人たちのおかげで、バスケットを長く続けられたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
自分はまだまだできると思っていましたが、体力の限界を感じながらやってきた中、今後後輩に道を譲るということを決め、今シーズン限りで引退することにいたしました。
僕自身はたくさんの指導者に恵まれ、すごく運の良かった選手生活だったと思っています。これからはその人達の側に立っていろんな人を応援しながら、支援できるように頑張っていきたいなと思っています。
今までたくさんのファンの方々、企業の方々、支援してくださった人たちに本当にこの場を借りてお礼を言いたいです。ありがとうございました。

―今後指導者の道を歩まれると思いますが、具体的なビジョンはございますか?
いや、まあ指導者の道の前にたくさん勉強することがあるので。いろんな勉強を今後していきたいなとは思っています。

―一番印象に残っているゲームは何ですか?
資料にも紹介があるように、1995年のユニバーシアド、世界大会に2位になったという。決勝で、今もNBAでプレーしている選手もいますが、ほとんどがNBAに行くだろうというアメリカの学生代表のチームと試合をしたということが、今までのバスケット人生の中で一番いい試合だったと思っていますし、印象に残っています。

―「体力が続く限り現役を続けたい」と様々なインタビューで語っていましたが、いつ頃から引退を考え始めたのでしょうか?
今シーズンに入ってからですね。正直、もっとできるだろう、45歳くらいまではできるだろうと自分の中では思っていたんですけど。

―直接のきっかけはありますか?
直接のきっかけというのは特にないですね。ただ、やはり富樫(勇樹)が入り、館山(健太)が入って、どんどんどんどん若手の選手が試合に出れる時間が増えてくると、もっともっと若手に頑張ってほしいという気持ちも出てきて。まあ選手登録が15名なので、なかなか練習生も含めて登録に入れない選手も中にはいますし、この選手はもっとチャンスをもらって、活躍する場が必要じゃないかなとも多少は思っていたので。そこらへんも含めて全体的に、自分の体力も限界にもきてますし。

―小さいころ秋田でプレーしたことの思い出はありますか?
小学校でバスケットをはじめて、中学校・高校と秋田でバスケットをやれたからこそこの歳になってもできたと思っています。どのスポーツも一緒だと思いますが基本がしっかりしていないと一流選手にはなれないと思いますし試合でも活躍できないと思うので。小中高で秋田で学んだことが、大学・社会人・プロとしてだいぶ活きたなというのはやっていて感じていました。

―プロ選手として秋田に帰ってきて、秋田に対する思い
プロになって秋田に来て感じたことは、応援してくれる人がたくさんいて、特にファンの人の声援が力になったことはたくさんありました。あとは、よくラッキーなシュートとかラッキーなプレーも自分の中ではあったんですけども、それって実力ではないと思ったんですね。ファンの皆さんの後押しがそういうプレーを生みだしてくれたということが、特に秋田では数少ないプレータイムの中で、あったと思います。そういう部分はプレーをしていて、秋田に来てすごく感じました。

―長谷川選手の中で秋田というのはどんな存在ですか?
生まれ育ったところに戻ってきて、こういう形で終わらせてくれました。なかなか、地元で育てていただいて、そこから出していただいて、また地元に戻ってきて現役を終えることって滅多にないじゃないですか。なので本当に僕自身、幸せだなと思っています。このチームに来てよかったなと思っています。

―どういった場面で体力の限界を感じたのでしょうか?
20代後半で、膝の関節が痛くなるんですね。まあ人それぞれなんですけど。で、30代で筋肉、靭帯。例えば肉離れだとか、ちょっとした筋断裂だとか。そういう筋肉的な部分がものすごく痛むようになって。40代になったら身体の中身、内臓系があまり良くなくなってきた。例えばちょっと走っただけで心臓がドキドキして違和感があったり。今までにない感覚を感じたことがあったので。このまま続けると間違いなく、身体のどこかが(悪くなると思った)。まあ、いつもあちこち痛いんですけどね。そういうことを感じながらやっていたので。
間違いなく自分のパフォーマンスも、去年より今年の方が確実に落ちてきているのを自分なりに感じていたので。

―「勉強をする」とおっしゃいましたが、具体的な内容や球団との関わりは?
まだ決まっていないです。なので今後しっかり自分の中で整理をして、球団としっかり話をして、決めていきたいなと思っています。

―後進の支援の方向性について
それも今後ゆっくり決めたいと思います。
ただまだレギュラーシーズン8試合、ホームゲームも4試合ありますので。今なかなか勝てていない状態で、怪我人も多いので。ぜひこれが起爆剤量のひとつとなれば。8試合すべてに勝つつもりで、何かしらチームに貢献したいと思っています。

―今後の秋田のバスケットに期待するものは何でしょう?
本当に僕が生まれ育った中学・高校時代は能代工業が全国で毎年優勝していた時代でした。小学校・中学校・高校はじめバスケット王国にふさわしい、強い、「本当にバスケット王国だ」と言われるようになればいいと思っています。そのためにはやはりハピネッツの存在が絶対に必要だと思うので。

―今日が42歳の誕生日という話もありましたが、改めてこのタイミングへのこだわりというのは?
こだわりですか?まあ正直そういう風に体力の限界を感じながらやってきた中で、いずれは引退会見をしないといけないと思っていたので。たまたま誕生日が近かったので、誕生日で記念するような会見をしようと思いました。

―何歳からバスケットを始めたのですか?
小学校5年生ですから、11歳ですかね。

―秋田に来てからは怪我もありなかなか試合に出ることができませんでしたが、その辛さはありましたか?
やっぱりずっと試合に出ていたのに、試合に出れない辛さというのはみなさんも経験があると思います。
やっぱりファンの方々に「長谷川さん出てよ」とか、「長谷川さん出ないとつまんないね」と言われるのが正直すごく辛かったというのはありました。試合に出てプロ選手はなんぼなので、その部分は口では表せないくらい辛かった部分はあります。

―その中で、どうやって踏ん張っていたのでしょうか?
もう、常にトレーニングですよね。トレーニングしながら怪我しているところ、痛いところをできるだけ治療することが必要だったので。毎日のようにやっていましたね。

―チームがなかなか調子に乗っていけない中での引退に悔いはないのですか?
いや、これはね。有明に行けないわけじゃないので。まだ僕も有明に行くことを信じていますし、優勝して9年間飲んでいない酒を飲みたいと思っていますので。
ただ、現役生活を引退するに当たって正直悔いはつきものだと思うので。まあ来年、再来年現役をやって引退しても、たぶん一緒だろうなという風には思っています。どう振り切れるかなので。残りのシーズンがまだあるのでね。その残りの8試合を自分ができる限り、悔いのないようにやっていきたいですね。

―「指導者に恵まれた」とおっしゃいましたが、特に力になってくれたと感じる方は?また、その方々に報告はしましたか?
もうお世話になった方々には、会見する前には連絡しました。特に中学校の藤井先生、高校の能代の加藤(廣志)先生、最後に指導してくれたノーザンハピネッツの中村(和雄)HC。素晴らしい指導者に恵まれたと感じます。3人とも違うタイプの指導者なのですごく勉強になりましたし。3人まとめたような指導者になりたいと思っています。

―報告した時、どういった反応をされていましたか?
中学校の藤井先生に引退会見の前に話をしたら、「会見の前に報告してくださってありがとうございます。長い間ご苦労さん。」と言われました。加藤廣志大監督には、「長い間ご苦労だったね。」という話をされまして、「今後どうするの?」とも気にはしていました。中村HCには、「おまえ何年間現役をやったんだ?」っていう話から始まり(笑)、まあ僕自身も何年間やったのか数えられないくらい現役をやったことにびっくりしました。「ご苦労だったね。」という話もいただき、「残りのシーズン頑張ろう。」ということも含めて話をしました。

―自分自身の現役生活を表すと、どんな言葉が似合いますか?
そう言われると…困るなあ(笑)。なんですかねえ。あんまり思い浮かばないですね。

―長谷川選手にとってバスケットボールはどんな存在ですか?
生きがいだったような気がしますね。常にバスケットを中心に生活してきたので。これからが大変だと思ってます。

―バスケットのどんなところが好きで、ここまで続けてくることができたのでしょうか?
良い指導者に恵まれたということと、自分自身のバスケットに対する情熱がやっぱりここまで、やって来れた要因だと思います。24時間ずっとバスケットのために時間を費やしてきたので。朝起きたらすぐ、今日何をしなくちゃいけないかを考えて。朝から晩まで。トレーニングしてる時間は限られてますけど、それ以外の時間は自分がバスケットをやるために必要なことをやってきたので。

―パフォーマンスの低下を感じる中、どんな思いで今シーズンに臨んでいましたか?
秋田に来てから自分のパフォーマンスを含めて、どうやって自分が出なくてもチームに少しでも貢献して1試合でも多く勝てれば、と言う気持ちは人一倍強かったです。自分のプレーで勝利に貢献できれば良かったんですけど、試合に出れない分、勝利に貢献するのには何が必要なのか、とか。ただ、試合に出れないからチームに貢献できてないなと思うこともありましたし。

―そんな中で、今シーズンの残りはどんなプレーをしていきたいですか?
正直、試合に出ることはないかなと思っています。ただ、それ以外でも自分にできることを見つけて、うまく勝利に貢献できたらいいなと思います。

―ハピネッツに来てから一番印象に残っているゲームは何ですか?
1シーズン目の12月25日、26日に新潟戦がありまして。土曜日は負けて、日曜日勝ったと思うんですけども。その土曜日のゲームで、第2クォーターだけで17点を取って(※編集部注 最終的にこの試合では28得点を記録)。そのクォーターはフル出場して。その試合がやはり印象に残っていますね。
先ほども言ったんですけども、自分の力ではなく、ファンの方々の声援が後押ししてくれたプレーだったなというのがいくつかあったので。

―残りレギュラーシーズンは8試合ありますが、ファンの方々にメッセージはありますか?
まだ我々はあきらめてはいないので。ぜひ有明に向かって熱い声援と思いを試合会場でぶつけてもらいたいと思っていますし。ホームゲームが4試合残っていますし、一人でも多く試合会場に来ていただいて、ハピネッツを勝利に導けるようにお互い頑張っていきたいなと思っています。

―長谷川選手は日本バスケットのパイオニア的な歩みをしてきましたが、自分自身で切り拓いているという自負はありましたか?また、なぜそのような挑戦する心が湧きあがってきたのでしょうか?
そういうつもりはないんですけどね。自分で何かを先立ってやろう、という気持ちは正直ないです。ただ、思ったことをやろう、という気持ちは人一倍強いので。その結果、そういう風になっちゃったのかなとは思います。今後、思ったことをどんどんどんどん違う形で表現できたらいいかなと思っています。

水野勇気社長より、補足とまとめ
先ほど本人が印象に残ったと挙げた新潟戦に関しましては、余談ですが私にとっても印象に残っている試合です。当初1年目にノーザンハピネッツに誘う中で、会社としてはヘッドコーチで来てほしいという話をしました。しかし本人は当時、現役への強いこだわりがありまして、その中でプレーイングマネージャーという新しい試みでノーザンハピネッツに来てもらいました。当時まだやれることを証明した試合だったと思っていますので、我々チームの人間にとっても非常に印象深い試合でした。
それから、これは本人とこれから詰めていく話ではあるのですが、シーズン終了後にメモリアルゲームのようなものはぜひ開催したいと思っています。日本のバスケットを引っ張ってきた第一人者だと私も思っていますので、プロ野球やJリーグでもあるようなメモリアルゲームはぜひ開催したいです。
また本人の今後の去就につきましては、本当につい先日引退の意向を聞きましたので、これからしっかり話し合いをしていきたいと思っています。ただ、近い将来にヘッドコーチとして就いてもらえれば、というのが会社の意向でございます。

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【略歴】

長谷川 誠
[ポジション]ポイントガード
[身長/体重]186cm/85kg
[生年月日]1971年4月2日(42歳)
[出身地]秋田県横手市(旧・平鹿郡雄物川町)

[経歴] 1982年
沼館小学校5年時にバスケットボールを始める。
1984年―
雄物川中学校でセンターとしてプレー
1987年―
能代工業高校でポイントガードに転向。在学時に5度の全国大会優勝、3年時に全日本ジュニア選出。
1990年―
日本大学で4年時に大学三冠を達成。
1994年
日本リーグ・松下電器に入団。チームをリーグ優勝に導き、MVP、新人王、、ベスト5、フリースロー個人タイトル等の複数タイトルを同時受賞。
日本代表に選出。以降2000年まで7年にわたり代表の主力選手を務める。
1995年
福岡ユニバーシアド大会準優勝(日本の過去の国際大会における最高成績)。大会得点王に輝く。決勝戦では後にNBAのスター選手となったアレン・アイバーソン、ティム・ダンカン、レイ・アレンらを擁するアメリカ相手に25得点を挙げる。
1996年
当時日本のバスケット界では異例だったプロ契約を結び、外山英明と同時に国内初のプロバスケットボール選手となる。
ゼクセルを日本リーグ2部優勝、1部昇格に導く。シーズンMVP獲得。
2000年
ABA(北米独立リーグ)のサンディエゴ・ワイルドファイアに移籍。日本の男子バスケット選手では初となる、海外プロリーグ選手となる。
2001年
日本リーグ・いすゞ自動車に移籍。
2002年
JBL・新潟アルビレックス(現bjリーグ・新潟アルビレックスBB)に移籍。JBL、bjリーグの両方のオールスターゲームに出場した初めての選手となる。
2010年―
秋田ノーザンハピネッツに移籍。現在に至る。