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――ラウーフ選手のキャリアを振り返る
-ラウーフ選手のキャリアは知られているようで知られていない部分が案外と多いと思いますので、幼少時代から振り返って頂いてどんな少年でしたか?
小さい頃の話になるとフットボールをやったり、外でみんなで野球をやったりとか。フットボールは小学校でもやっていた。それ以外には例えば公園で、自分で坂を作って自転車で坂を飛んだり、ブランコで友達とどこまで遠くに飛べるか競いあったり。小さい頃からすごく走るのが速くて運動神経が結構良いことには気付いていたので、いろんな人と競いあったりしていた。
バスケットボール自体を始めたのは4年生の時だけど、一番最初に出た試合で21点入れて、いつも自分はバスケットボールをする時は年上を相手にしていたので、小学生の時はよく高校生を相手に試合をしていた。
自分は一度やると決めたら、とことんやるほうなのでバスケットボールをやると決めた後は朝の5時に毎日起きてドリブルを練習したりしていたけど、自分がそれをやらないと人生がダメになるぐらいの勢いで練習していたので、外がどんなに寒くても雨が降ってても雷が鳴ってても毎日朝の5時からボールを持って走りまわって練習していた。だいたい9歳か10歳頃にはバスケットボールを将来仕事としてやりたいなというふうには考えていた。
水泳も昔やっていたけど、だいたい2メートルぐらいの深さがあるプールに入って、縦横を使ってプールサイドに立って自分で飛べるところまで飛んで、そこから全力で端まで泳いで、少し休んでまた登って飛び込んで・・・というのを何回もやって自分で泳ぎ方も習得した。
-バスケットボールを将来仕事にしようと決めたという話が出ましたが、自分がNBA選手になれると確信した時期、具体的にはNBAにいける才能があるって思った時期はいつですか?
それを最初に感じたのは高校生の時だった。先ほども話をしたけど、いつも年上を相手にバスケをやっていたので高校生の時は大学生相手に練習試合をよくやったりしていて、ある時プリンストンであったナイキのキャンプに参加した時にマイケル・ジョーダンがそこに来ていた。自分はその時高校生の2年生か3年生で、アメリカ国内のガードの選手では一番の選手だと言われていたけど、マイケル・ジョーダンからボールを渡されて1対1を挑まれて、「自分を相手に得点してみろ」と言われた。1度得点したらまたボールを渡されて「もう一回やってみろ」と言われてもう一回やってみたら、やっぱり得点出来た。その時マイケル・ジョーダンはNBA選手としてやっていたので、その選手に対して得点を二度決めることが出来たので、その時点で自分は絶対NBAに行けるはずだと思えた。
-以前、試合後のインタビューで「NBAを見ていた」と仰っていたのですが、特にお手本にしていた選手とかいますか?NCAAの選手でも構いません。
選手を何人か挙げるとしたらドクターJ(ジュリアス・アーヴィング)、エディー・ジョンソン、ダニー・エインジ、ラリー・バード、アイザイア・トーマス、ロバート・パリッシュとか名前を挙げたらキリがないけど、自分はアトランタにいたのでアトランタ・ホークスとどこかのチームが試合をしている時によくテレビでそれを見ていて、その試合からいつも何かを学ぼうと思って見ていた。ポジションは違うけど特にドクターJはフィンガーロールや滞空時間が長さといったプレイスタイルがすごく好きだったので特に見ていた選手。
-初めてダンクしたのはいつですか?
7グレード(日本で言う中学1年生)。
-ここで少し話は戻りますが、高校を卒業してルイジアナ州立大(以下LSU)に入学するわけですが、LSUを選んだ理由は?
決めたことの理由として、コーチと自分の考えが合っていた。それが理由のひとつ。
-LSUでの専攻は何ですか?バスケットボール以外にスポーツをしたりしましたか?
バスケットボールだけです。実際あまり勉強はやっていないし、他の選手もそうかもしれないけど、一応ビジネスマネジメントを専攻していた。もし、もう一回大学に戻るとしたら同じ専攻にはならないと思う。
-もし大学に戻れるとしたら何を専攻しますか?
もし大学に戻れるとしたら、ひとつではなく、様々なことを勉強したい。社会学やライティングのクラス、それ以外にも自分は読書や書いたりすることが好きなので、そういう事を勉強してみたいし、言語学もやってみたいと思う。もちろん音楽も(笑)昔から人によく歯医者や医師なれるのではないかと言われていたので、もしかしたらその道に進むかもしれない。
-LSUを2年で中退するわけですがアーリーエントリーを決めた理由は?
元々大学に行く目的が将来NBAでプレイする事だったので、そのチャンスがあり、これ以上待つ必要は無いと思いアーリーエントリーを決めた。実際は1年目が終わった後に行くチャンスはあったが、1年LSUで良いプレイが出来たので、2年連続で出来るかどうか見極め、自信をつけてから(NBAに)行こうと。それが2年在籍した理由のひとつです。バスケットボールをするのは、家族を支えるためだった。母や兄弟のためにやりたいと思っていた。みんなに良い生活をさせたかったし、実際学生の間はお金を稼ぐことは出来ないので、例えば怪我すればNBAに行くチャンスは無くなる。チャンスがあったので、それを利用して行っただけだ。
-2年生の時にシャキール・オニールと一緒にプレイして彼はどうでしたか?
大学にいたころからすごいアグレッシブで、もちろんやらなければいけないこともわかっていて、非常に一生懸命練習やトレーニングに励むような選手だった。才能的には大学に入った頃とプロの頃とではあまり変わっていないと思うし、ジャンプシュートもフリースローもあまり変わってないような感じがする。大学生のころから自分の体の強さを使って攻めるような選手だった。
-その後NBAに全体3位で指名されるわけですが夢がかなった時の気持ちは?
指名された時はやっとこの瞬間を迎えることが出来たと思い本当に嬉しかったが、それと同時にこれからは違う選手達とやっていかなければならないと心配に思うところもたくさんあった。自分自身もがっかりしたくなかったし、例えば神様や家族をがっかりさせたくないという考えもあったので、あの頃はその後のことを考えていろいろと心配していた。
-91年にイスラム教に改宗されましたが、きっかけは何だったのでしょうか?
そこに至るまで疑問に思っていた事をいろいろ調べたが、NBAに入ってからコーランを読み、多分3ページぐらいしか読んではいないし実際に何が書いてあったのかハッキリとは憶えてないけど、自分が今まで思っていたいろいろなことについて、そこに答えが書かれていたので、自分ではこれこそが探していた真実だと思った。
-名前を改名されましたがどういう意味なのでしょうか?
名前を変えることを決めたのは自分自身だが、名前を選ぶ時には人の助けも借りて名前を選んだ。実際に名前を選んでくれた人のひとりがマクムード、もうひとりがアブドゥル=ラウーフだったので、それがどういう意味を持っているのか聞き、「あぁ、じゃあその二つで良いよ」というのでその名前に決めた。自分としては自分がなれる最高の人物になりたいと常に思っているので、宗教を変えただけではなく、例えば自分の性格や名前、そういうことを改めて新しい宗教に臨みたいという気持ちがあった。
-NBAでの出来事のひとつとして、第8シードのナゲッツが第1シードのソニックスを破ったことがありますが、その時の思い出は何かありますか?
全く勝てると思っていなかった。対戦相手はその時NBAで一番成績が良かったチームで、60勝以上を挙げていたと思うけど、その次の年も一番良い成績のチーム相手に勝つことが出来たような気がする。自分は本当に勝てるとは思ってなかったが、結果として勝つことが出来たし、それにみんなが驚いていたけど、人生の非常に良い経験だったと思う。
-ナゲッツからキングスへ移籍し、その後トルコのフェネルバフチェでプレイされてらっしゃいます。そして一度引退されてらっしゃいます。なぜ引退されたのでしょうか?
バスケットボールをしなかった一番の理由はバスケットボールをしたいという気持ちになれなかったから。丁度、一人目の子供が生まれたところで子供と離れたくなかったというのもあるし、それ以前にアメリカ国内で政治批判的な発言をしたことに対する批判に対してもあったと思うし、そもそも自分のバスケットボールに対する愛情というのがすごく薄れていた時期でもあった。だからアメリカに帰ることを決めてしばらくイスラムの活動をしていたが、その頃オーランド・マジックのドミニク・ウィルキンズから連絡があり「オーランドに来ないか?」という話を言われ、サラリーは悪くは無かったけど、その時に自分が良い状態になってチームに入ったら試合に使ってくれるのかを一番最初に聞いた。それはサクラメントでプレイをしていた時に出場時間がすごく減らされていた事があったので、自分はただお金を稼ぐためだけではなく試合に出たいという気持ちがすごく強かった。実際試合に使ってくれるか聞いたが、はっきりした答えを貰うことが出来なかった。それなら行くのを止めようと思い行かなかったので、それから1年やってまた休んだり、やったり休んだりをずっと繰り返してきたが、2年連続で同じチームでプレイするのはNBAを引退してからは京都が初めてだと思う。例えばロシアやトルコにいた頃は、怪我をするまではリーグの中で得点トップだったりしたこともあったが、2年連続で同じチームと契約することは一回も無かった。
-2年連続で同じチームと契約しない理由は何ですか?
正直自分としてはなぜ2年連続で契約するに至らないのかはよく分からない。実際ひとりの選手としてシーズンが進んでいく中で、自分が良くプレイ出来ている時は来年もあると思うけど、何らかの理由でそういうふうに今までなっていない。それは年齢のせいなのかもしれないし、年をとっているので怪我をしやすいというふうに思われているのかもしれないが、怪我をしやすいかどうかというのは別に若い選手だろうが年をとっていてもあまり変わらないと自分では思う。だから去年の自分の成績を見返した時も京都にはおそらく戻って来ないだろうと思っていたので、オファーを正式に貰うまでは自分はドイツでプレイすることになるのではないかと思っていた。実際日本からオファーを貰ったときは日本の国自体も好きで、チームも非常に気に入っていたので、体制としても大きな変わりが無いという話を聞き、戻っても良いかなと思い戻ってきた。
-NBAに残らなかった理由というのは何だったのでしょうか?
それは自分が決めたことではなく向こうが決めたこと。実際は向こうが決めたことで、自分がトライアウトを受けたくてもトライアウトすら受けさせてもらえなかったというのが現実だ。おそらくそれは自分の政治批判的な発言に対する批判が影響を及ぼしていたのでないか思う。
-いろんな海外でプレイされてらっしゃいますが、思い出深いところはどこかありますか?京都以外で。
イタリア。すごく家族のようなチームですごく良い組織だった。人は日本に似ているけど、非常に優しい人達に囲まれて、食べ物も良かったしチームメイトも恵まれていたと思う。
-海外での話になりますがギリシャリーグのアリス在籍時にユーロリーグでプレイしてらっしゃいます。NBAとユーロリーグの違いはありますか?
NBAはNBAだよ。どちらのリーグに関しても言えることだけど、良いチームもあれば悪いチームもある。基本的にユーロリーグの時はまずはディビジョン内で試合をすることが多いけど、それでも良いチームもあれば悪いチームもある。(チーム間に)給料の差もあると思うが、才能のある選手はたくさんいたのではないかな。しかしお金をたくさん払ったからといって必ずしもその選手がいつも上手いとは限らないし、自分もヨーロッパにいた時に結構良い給料をもらっていて、それをかなり高いコンピューターや車を買うのに使ってしまったという現実がある。それは例えばGM(ジェネラル・マネージャー)があまり良くない選手にすごく高いお金を払うことにちょっと似ているかもしれない(笑)
-海外を経て日本に来ることになるわけですが、日本に来る前の日本に対する印象は何かありましたか?
日本に来るまでは日本はアジアの中の国のひとつだというイメージしか無く、来る前はいろいろと心配事もあったが、こういうオファーを貰った時に「ただで旅行出来る良いチャンスだ」と思ったし、その頃は前のコーチのベンワーがいたので良いチャンスかなと思って来た。2年経ってみれば日本は自分にとっては2番目の故郷みたいだ。
-プレイオフが終わった直後の試合でも聞いたのですが、改めて去就について聞かせてください。
京都での生活については本当に何の不満も無いよ。食べ物もおいしいし、すごく良い人達ばかりで、静かで、はしゃぎたいと思えば15分で街の中心に出る場所にいるし、買い物も出来るし、本当に自分としては何の不満も無いし、毎日生活をすごく楽しんでいる。先程も話したように自分にとっては第2の故郷みたいだと思っている。京都に来てからもう2年も経つので友達もたくさん出来た。例えば今日のようなトレーニングジムに来る時も、実際言葉は通じないけどここに来ると声をかけてもらえるようになった。
Vol3はtwitterで募集したマクムード・アブドゥル=ラウーフ選手への質問に答えて頂きました。