富山グラウジーズ元ヘッドコーチ、衛藤晃平氏インタビュー

今回は2月2日付で富山グラウジーズのHCを解任となった、衛藤晃平氏のインタビューをお伝えします。

まずこの記事の掲載にあたり、富山グラウジーズの黒田代表をはじめ全スタッフのご理解と多大なるご協力があったことをお伝えすると同時に、感謝の意を表したいと思います。解任されたHCのインタビューという事で非常にデリケートな部分もある事は確かですが、私が論点としたいのはそこではありません。

bjリーグというまだ幼いこのプロリーグにおいては、あらゆる面でのステップアップが急務なのですが、ことコーチングに関しては、なおシリアスな状態にあります。

このリーグのコーチについて俯瞰してみると、いくつかのパターンに分類されます。

まずは外国人HC。ボブ・ヒル、ロバート・ピアースHC、ボブ・ナッシュHCなど。彼らは、やはり「外国人」であり、外国人選手同様、その多くはいずれ日本を去ってゆく。

では日本人HCに関するならば、これはいくつかのグループがあります。

JBL時代からのベテラン勢。中村HCや廣瀬HCです。また過去では天日氏、青木氏らの名前も挙げられます。

そして、この流れを組むHCがいます。小川HCはいすゞ。遠山HCは中村HC。浜口HCもトヨタでの経歴があります。富山の下地HCも、OSG時代に中村HCの影響を色濃く受けています。

ところがこの衛藤氏に関するならば、全くの異色ともいえる存在と言えます。ここまで大学バスケでのキャリアがほとんどであり、ある意味、上記のような伝統的な「コーチングツリー」という観点では、衛藤氏はbjのアウトサイダー的存在となります。

しかし考えてみるならば、bjリーグの実態として、その多くが「JBLのお下がり」から脱却できていません。それはコーチしかり、選手しかり、レフリーしかり。また、bjオリジナルの選手がなかなか育成できないのは、それはコーチングにおいてもその状況を打破できていないという現実が大きく影響しているのではないでしょうか?

そんな世界に飛び込んだのが、まだ20代の意欲あふれる青年コーチ。そもそも衛藤氏自身もbjリーグをよく知らない状態で、プロチームのHCという要職に就く事になりました。

このインタビューでは、そんな衛藤氏が果たしてどんな思いをもってプロの世界に飛び込み、そして弾き返されたのか。他ではまず聞き得ないであろう赤裸々な心情の吐露と、心の奥底での葛藤をお伝えします。

********************

―それでは、宜しくお願いします。
お願いします。

―まず衛藤氏自身についてですが、金沢大学や浜松大学でのコーチングなど基本的には学生バスケ界に携わっていました。富山グラウジーズから声がかかる前は、bjリーグに対してどのような印象を持っていましたか?
一言で言うなら「知らない世界」で、JBLやJBL2はよく見ていたんです。bjに関しては、「お、この選手すごいな!」という程度しか見ていなかったですね。リン・ワシントンであるとか。でも「バスケットを見る」という意味ではJBLを見ていたので、bjに関しては無知に近かったですね。

―実際にbjの試合会場に足を運んだことは?
そうですね、大阪で1つ、浜松を2つくらいですね。

―2009年に金沢大学のコーチとの兼任という形で、富山グラウジーズのアシスタントコーチとなります。ここに至る経緯は?
アメリカに行っている時に(後述)、まず金沢大に戻るという事に決めたんですね。その後に、富山の黒田代表と話をしたんです。学生のシーズンとプロのシーズンがズレているという事と、練習時間帯も違っていたんですね。日々の生活で言うなら、富山の練習を午前9時から午後4時まで。終わるとすぐに金沢に車を走らせて、午後6時から午後9時まで学生を見ていたんです。試合に関しては、学生は基本的には10月末で終わるので、なんとか富山に穴を開ける事なく上手く対応できたと思います。

―bjリーグというプロの世界に入ってみての印象はどうでしたか?
日本人選手のレベルが高くはないな、と。イメージしていたのに比べて、高くない。その印象が強かったのと、あとは外国人選手との文化的差異であるとか、表現の仕方とかについては、新鮮な感じがありましたね。

―浜松大学時代には、セネガルの選手とも接してますね?
そうですね、ママドゥがいました。

―彼はやはり学生の立場ですが、今回はプロ選手です。特に外国人選手と接してみて、印象的なことはありましたか?
初めて外国人選手と接したのは、その前のアメリカPBLの時なんですよね(※1)。その時は、「これがホントか?」という疑心暗鬼だったんです。PBLの選手達を見て、「あれ、こんなにlazyな部分(怠惰な、だるい感じ)を持っているのかな?」と。レベル的には、ABAにいたヴァーモントがいて、あれが僕が所属していたチームのライバル関係だったんです。タイロン・レヴェット(元新潟)とか、あの辺ですね。アントニオ・バークス(現bj秋田の)とか。

※1・・・衛藤氏は2009年1月から3ヶ月間、アメリカのマイナーリーグのひとつであるPBL(Premier Basketball League)のマンチェスター・ミルラッツでアシスタントコーチとしてチームに帯同。マンチェスターとヴァーモント・フロストヒーブスはABAでのライバルチームであり、両チームともこのシーズンはPBLでプレーしていた。現地での様子については、当時の衛藤氏のブログをご覧ください。

―そのレベルでも、やはり緩い、と。
そうですね、練習の始まりも終わりも緩かったり、ロッカールームで壁殴ったりして、「あれ?」と思ってましたね。富山の外国人選手と触れ合った時は、同じような感覚はありましたね。日本で言うなら「教育されてない」の一言で片付けられてしまうかもしれない、自由気ままな感じですね。「これをどうコミュニケーション取って、どうやっていけばいいのかな?」というのが、自分の最初の課題でした。

―チーム体制としてはチャールズ・ジョンソン(CJ)がヘッドコーチで、衛藤氏はアシスタントコーチとして彼をフォローする立場でしたが、具体的にはどのような役割でしたか?
意識していたことが2つありまして、1つは、昨シーズンは練習生が結構いたんで、午前中は練習生をメインに見ていたんですね。今シーズンのチームにいる高野、庄司、白田、東、あとは元新潟の大崎とか。午前中は練習生だけの練習を行って、午後のトップチームの練習になると、CJと選手の間に入って、という形になっていました。

―PBL時代にも外国人コーチと接していたと思いますが、今度はフルシーズン、HCであるCJと共に過ごした訳ですが、この印象は?
正直、まだ彼を理解し切れてなくて、彼がどう考えているか?ということも、全ては理解できていなかったというのが本音です。恐らくCJも2年、3年というスパンでチームを見ていたと思うんです。バスケットや人生哲学について、小出しにしていた部分があったと思うんですね。なので、全てを理解し切れなかったというのはありますね。

―それはACである衛藤氏だけでなく、チームとしてもCJを完全に理解するには及ばなかったということでしょうか?
間違いないです。それは僕のACという立場からして、一番の失態だったと思います。(HCとチームの)間に入ってあげられずに、選手がフラストレーションを溜めている中で、カバーしてあげられなかったというのはありますね。ただCJには凄く感謝しているんですけど、根間ACと僕の2人、僕らを育てるという意味も彼は持っていたようなんですね。突然、「衛藤、今日は采配してみるか?」とか。極端ですが、そんなこともあったんですよ。

―任せられた部分もあったということですね。
そうですね。そして、その真意を100%理解できなかったといのが、未だにあります。その辺のコミュニケーションを僕とCJでしっかり取れなかった為に、選手達が板挟みになっていた部分があったのではないかと思いますね。

―結果的に成績不振もあってCJは契約解除となり、その後、今度は衛藤氏がHCに就任する事になるのですが、この経緯は?
最初は、「候補の1人として考えている」という話でした。HCとしてのプランニングについて聞かれたので、それはこうだと伝えました。

―そして正式にHC就任に至るのですが、衛藤氏の目指す富山というチームのイメージはどんな物だったのでしょうか?
いろんなアプローチの仕方があると思うんですけど、まずは日本一を目指してやろうと。プロである以上、チームの経営状態によって目標が変わるというのは無いと思うんです。そのアプローチの仕方として考えていたのは、4位に滑りこんでプレイオフに出て、一発勝負で優勝を目指そうというイメージは持っていました。で、富山は若い選手が多くて、庄司、白田、東は大学出たてですし、水戸もまだ自信が無くてネガティブな発言が見られたり、行けばいいのにパスしたりという場面が結構あったんですね。加藤に関しても、彼はレラカムイで悔しい思いをしてきたので。全員に共通するのは、経験の無さと、自信の無さ。自分に対して。そんな日本人選手達だったので、シーズン前半はとにかく経験を積ませようと。オールスターまでは「あれしろ、これしろ」だと過緊張になって萎縮してしまっていいパフォーマンスが出来ないと思ったので、均等では無いですが、全員に緊張感を与えながら、プレッシャー耐性であったりメンタリティであったりとか、小さな目標を達成することによって自己有能感を感じてもらって、その間に僕が一気にデータを分析してしまって、後半戦に勝負しよう、と考えていました。

―その中でも、やはり日本人選手の強化に対する意識が強かったのでしょうか?
ものすごく強いです。最後の最後まで僕はこだわり続けていたんですけど、日本のプロリーグなので、日本人が活躍して、若しくは日本人が成長しなければいけないと思うんですよね。なので「育成」と「結果」という二兎を追ったせいで、一兎をも得ずだったんですね、結果的には。僕はこの2つを追いたいというのはありましたし、日本人が伸びない限りは、発展は無いと思うんです。やはり僕は日本のバスケットの発展、日本代表の発展、これがあるから、プロの世界が成り立っていると思うんです。とにかく日本人選手にバスケットを教えて、フィードバックしてもらって成長してもらって、という事にこだわっていました。とにかく日本人選手に関して、技術に限らず、「いろんな意味で成長させたいな」、というのはものすごくありましたね。

―外国人選手についてですが、ACではなく今度はHCとして彼らと接する時に意識した事はなんでしょうか?
富山の外国人選手は若いですし、当然私も若い人間ですので、彼らの感情表現に一喜一憂して反応するのではなく、それを受け止めて話をして、フラストレーションを1個ずつ取り除いていかなければいけないというのは、すごく重きを置いていました。バスケットがどうのこうの以前に。

―若い外国人選手ということで、日本人選手同様、技術的にも教えることが多かったでしょうか?
意識としては日本人選手に教えるというのが強かったですね。外国人選手はオフェンス能力があり、オフェンスが大好きな選手がいたので、放っておいても点は取れるようになると思ってたんですよ。ディフェンスに関しては(いい所を)伸ばすというより、「こういうディフェンスをしたいからこうしてくれ」と、共通理解を促す方向に力を入れていました。

―衛藤氏のイメージの元、前半戦は勝敗よりも内容重視という事もあり7勝17敗という成績となりましたが、この結果については?
率直に、自分に力が無かったと思います。中村HC、浜口HC、廣瀬HCといった方々は、育成しながらも結果を出されていると思うんです。(富山も)育成しながらも、やはり取るべきゲームはあったので。新潟さんとやらせていただいた1戦とか(12/5、72-76で敗戦)、大阪さんの初戦とか(12/11、63-75で敗戦)。僕のコミュニケーションひとつで取れた試合も実際にあったので。(選手に)「フィードバックして、受け止めて、整理をしなさい」と一方的に、ある意味選手任せにしていた部分があったので、そこをもう少し引っ張れば、イメージどおりの勝敗数には行けたと思います。そこら辺のコミュニケーションですよね。そうやって選手の自立性を養いながらも、「養おうと考えている」という事をあまり伝えられてなかったかなと思います。

―衛藤氏がHCとして指揮した中で、最も自分のイメージに近かった試合はありますか?
やっぱりハマったのは、浜松さんに勝たしてもらったゲームですね(10/23、66-55で勝利)。後は、大味なゲームでしたけど、埼玉さんとの最初の試合(11/20、100-92で勝利)。あのゲームは、結構イメージに近いものがありました。

―そのHCとしてのイメージが上手く選手に伝わっている時、富山というチームのプレーに具体的に何が現れましたか?
指示待ちにならずに、自分達でプレーするようになりますね。突然、選手がダブルチームに行くんですよ。僕が「ダブルチームに行け!」と言ってから行っても遅いんです。でも(チームを)強くするためには、例えば「ドリブルを1個ついたらダブルチームに行きましょう」という指示をするんですが、指示だけを鵜呑みにするのではなく「なんでドリブル1個ついたらダブルチームに行かなければいけないのか?」という所まで選手に考えてもらいたいんですよ。その埼玉戦とか浜松戦とか、僕が言う前にダブルチームを仕掛けたり、オフェンスにしても、シチュエーションに応じてフレックスにやってたんですけど、指示しなくても相手の動きを見てスッと合わせに行ったりして。選手ひとりひとりの自立心、意思を持ったプレーを見れたのが、あのゲームだったと思います。富山として、選手の意思が見られた時がいいバスケットだったと思います。

―逆に言うと、悪い試合のイメージはありますか?
一番は宮崎戦ですね(1/8、77-99で敗戦)。この試合は、僕が「チャレンジしろ!」と言うくらいでした。せっかくいい練習をしていて、成長してきて、いい状態なのに、自分の持っている力を出そうとしなかった。前からプレッシャーをかければいいのに、ズルズル相手に合わせてしまって、大石選手にシュートを決められたりとか。気持ち的に受けた部分があったのと、中途半端にセットオフェンスを取り入れた時期でもあったので、セットオフェンスに縛られてしまったのもあったかもしれません。

―結果的に衛藤氏率いる富山は8勝18敗という結果に終わりましたが、この数字はどのように受け止めていますか?
正直、どうお考えですか?

―個人的にですが、序盤とは言え浜松に土をつけた一方で、あまりに荒れた負け方が多く、チームとしての波が大きすぎるので、そんなチームのコントロールの難しさがあったのではないかと思いますが。
そうですね、コントロール出来ていなかったというのはあると思います。そこで、コミュニケーションだと思いますね。僕自身が、もっと選手に歩み寄ってあげるという事をもっとしてあげるべきだったと、正直に思います。あと、サイレントクレームの部分ですね(※2)。シーズン頭に「それはやるな」と言ってたんですけど、それがポツポツ出てきてから、成績が悪くなっていったというのはあります。学生というのは、サイレントクレームはほとんど無いんですよ。(学生では)無いからこそ、(プロでは)それの対応方法が未熟で分からなくて。学生は、正面きって言いますからね。大人は距離を置いて対応するところがあるんで。その辺でちょっと歯車が狂ってきたり、その対応が分からなかったといのが本音ですね。

※2・・・サイレントクレーム、マーケティングなどで、商品やサービスに不満を持った時に直接伝えずにその後来店しなくなるなど、目に見えないクレームのこと。この場合は、不満のある本人に直接伝えず、他のチームメイトに話したり、またそれを他の選手が聞くなどして、チーム内に影響を与えること。

―やはりコミュニケーションの部分が難しさのひとつだったと思いますが、他には理由がありますか?
たぶんあげていけばキリが無いと思いますが・・・・・・やはり考え方として、「バスケットを教える」という事と、「バスケットを強くする」という事が違うにも関わらず、そこをしっかりセパレート出来なかったのが大きいです。後半戦に勝負と考えて、その為にA、B、C、D・・・と、いろんな事が後半戦に繋がっていくんですけど、全てを準備しすぎてしまった。どこかに目をつぶって、引っ張っていかなければいけなかったというのが2つ目ですね。自立を期待するためにタイムアウトを取るのをわざと遅くしたりしましたけど、他のところの為に早くタイムアウトをとってあげれば良かったかな?とかありますし。あと、一番自分の中で反省しているのは、外国人選手5人の起用法です。ハッキリ言って、最後の最後まで分からなかったです。やはりみんなプレータイムが欲しいんです。それを上手く消化してあげながら、押さえつけながら、チームに還元させることが出来なかったというのはありますね。

―プロ1年目のHCとして、あまりに理想を追い求めてしまった部分があったのでしょうか?
まさにそうです。追いかけすぎた部分がありましたね。やはり日本人選手に頑張って欲しいというのがあって。日本人選手を「機械」ではなくて、その選手としてのスキルを伸ばしてほしい、その意識がすごく先行しすぎて、逆に言えば外国人選手には我慢を強いる事になったでしょうし、たぶん(彼らは)「セットオフェンスにすれば簡単なのに」と思ってたんですよ。かなり頭でっかちで、「なぜ頭でっかちなのか?」という事を伝えてあげられなかった。もしかしたら、ある選手は「このコーチは何も言ってくれない」と思ってたかもしれません。「俺はこんな考えを持ってるから、まずは自分でやれよ」と、言動に関してちゃんとフィードバックして、ちゃんと話は出来たと思いますね。

―それでは逆に、HCとして「ここは上手く出来た」という部分はありますか?
正直、まだクリアにはなっていません。僕の中では、あまり数字に左右されたくないといのが本音だったんです。でも、プロは分析してナンボの世界です。シーズン前半戦が終わったときに、全選手の全データを分析して、プレータイムも調べたんですよ。何クォーターに強いのは誰、ホームに強いのは誰、アウェーに強いのは誰、と。それで(後半戦の)大分戦を結構いい形でスタート切れていたので、たった2試合ですけど、データ移行したチームはまあまあ良かったと思います。

※富山AC時代の衛藤氏

―2/2付でHCを解任という形となりましたが、衛藤氏のイメージしていた富山の後半戦の戦い方とはどのようなものだったでしょうか?
まず、水戸を2番(SG)に戻すということ。山城が伸びてきたので。これで日本人の点が伸びるという事と、高野が戻ってきてオフェンスに幅が出ますし、あとは前半戦のゲーム分析は全てしたので、機械的に全て対応していくという事です。なおかつ、富山は東京さんとの試合が6試合残していたので、そこを上手く乗り切れば、4位に食い込めるというのは思っていました。残ったオーバーカンファレンスの試合と、埼玉さん、秋田さんとの試合はしっかり勝ち切って、東京さんの6つを4-2でも行ければ、4つに入るのではないかと思ってました。

―約1シーズン半の富山でのキャリアの中で、コーチングに関して影響を受けた人はいますか?
やはり根間さんですね。根間さんと出会えたことはすごく大きい事でした。プロ意識もそうですし、物事の考え方もそうですし。例えば学生チームだと、100人いたら1から100まで目をかけると思うんですね。で、富山の選手も波があるじゃないですか。例えば落ちている選手に僕が目線を落としてやると、根間さんは「そこまで落としたらバスケは発展しない」と。無理にでも、選手自らが上がってくることも必要だと言ってくれましたし、なおかつ、それでも全員のことは洞察してやらなければいけない。そんな部分は話していてすごく勉強になりましたね。「プロとはこういう物だぞ」と。

―最後になりますが、今後の自身の方向性についてお聞かせください。
まだ何も決まってないんですけど、日本のバスケットの発展というのが自分の人生の中での目標なので、ゴールは無いと思うのですが、その為にプロは発展していって欲しいと思います。それにどのように関わっていけるのか?とすごく考えたのですが、僕は最初、プロのコーチになって関わるしか選択肢が無いと思っていたんです。でも、まだまだこれから何色にでも変化する可能性のあるbjリーグなので、どんなアプローチも出来ると思うんです。1つの例なら、例えば教育現場に戻って、そこから富山が勝つように貢献していくことも可能でしょうし、大学のコーチをしながら、bjのチームとタイアップしながらバスケットを広げていく、地域貢献をしていくということも可能だと思います。まだまだ未熟な人間なので、そういったいろんな経験を積んで、15年後、20年後、バスケット界がある程度形になって軌道に乗って、もう1回チャレンジしたいという気持ちはありますね。日本に生まれたからには日本のトップに直接貢献したいというのはありますし、ただまだまだ若輩者なので、いろんな方向性を探りつつ進んでいきたいと思います。

―応援してくれた富山ブースターの皆さんにメッセージをお願いします。
まず、「ありがとうございました」というのが1つです。あと、謝らなければいけないといのが1つ。よく言われたんです、「目線が上がらない」と。僕は会場では、いつも目線を落としてたんですよ。「顔くらいあげろ」と言われたんですが、あれは僕が学生バスケ界から来た手前、恥ずかしかったのと、世間体をすごく気にしていたのがあって。プロとしてはダメなんですよ。ダメなんですけど、目を合わせたくなくて。合わせると動揺する自分がいたので。スタッフさんから「○×さんがずっと見てましたよ」なんて言われてて。それで顔が上がらなかったのですが、その誤解だけは解いて頂ければと思いますけど、それも含めて、やはり自分に自信、余裕が無かったのかなと。それで選手に迷惑をかけた部分もあると思いますし、本当にお世話になったので、何もお返し出来なかったことが本当に悔しく思っています。バスケット界はまだまだ止まらないと思いますし、僕も止まっている訳にはいかないので、この経験を生かして、バスケット界に還元できるように勉強していきたいと思ってます。

―今日はありがとうございました。
ありがとうございました。

********************

実を言うと、衛藤氏が富山のHCに就任した際、私自身この人物について殆ど知りませんでした。そもそも、前年にACをしていた事さえ記憶にありません。それもそのはず、bjでは全く無名の存在だったからであり、だからこそ、衛藤氏はこの世界に飛び込めたのかもしれません。

メディアとして富山の試合で衛藤氏と接する機会が何回かありましたが、どうも他のHCと違う雰囲気を感じました。それが何か?というのがその時は分からなかったのですが、このインタビューを伺って初めてわかりました。

それは、不安なのです。

バスケの選手は30代ともなれば遠からず「引退」の文字がちらつくようになります。ところが、コーチングにはそれが無い。むしろ、長く継続すればするほど経験を重ね、その引き出しが増えていく。多くの試合とあらゆるレベルを経験し、それこそがコーチとしての財産となる。その経験は時には試合での緩急交えた適切な対応となり、練習での厳しいながらも的を射た指導となり、メディアに対しての語り口ともなります。

そう、中村HCやパブリセビッチHCのように。時間が許すならば、いくらでも話し続ける引き出しが彼らにはある。

では、この世界で経験やキャリアが絶対なのか?といえば、全てがそうとも言えません。例えばNCAAのバトラー大を躍進させたブラッド・スティーブンスHCのサクセスストーリーは夢物語ではなく、その現実のひとつなのです。

しかし日本という社会はそんなチャレンジの機会がほとんど無い。bjのような野心あふれる(はず)のベンチャービジネスにおいても、その実態は実に伝統的、オーソドックスなものです。

そしてその限られたチャンスを逃さず掴み、大志を抱いて挑んでは、為す術なくチームを去る事になったのが、この衛藤氏のストーリーです。

果たして、bjは「夢を諦められない人」の為のリーグではないのか。一度、その道を踏み外すともう王道には戻れない、そんな社会のオルタナティブとしてこそ、このリーグの存在価値があるのではないでしょうか。

今はまだ衛藤氏自身の心の整理がついてないのは明らかで、次のキャリアがどの方向性に向かうのか、おそらく本人の心の中でもまだ暗中模索の状態でしょう。

しかし20代にしてプロチームのHCを任されるという人材は、ここ日本ではおそらく数えるほどしかいないはずです。

それが1年後か5年後か、それとも衛藤氏の言う15年後か20年後になるかは分かりませんが、改めて衛藤氏のコメントを聞く日がやってくることを、私自身楽しみにしたいと思います。